2013年6月22日土曜日

ヨーガと仏教 ~ 慈悲喜捨の心 ~

先日、鎌倉にあるお寺の坐禅会に参加しました。

雨の建長寺は、綺麗なアジサイが
迎えてくれました。
 ※建長寺http://www.kenchoji.com/ 
  (建長寺坐禅会毎週金・土曜日
             夕方5時から6時
  
その時、意外にも若い参加者が多い
という印象を受けました。
ライフスタイルの欧米化を
疑問を持たずに進んできた日本ですが、
今のこの世の中になって伝統文化や神道、
そして仏教を再確認すべきだと
多くの人々が感じているのでしょうか。


ところで、
ヨーガは仏教と多くの共通点があることを
ご存知でしょうか?

歴史的に見るとヨーガは、その発祥が
紀元前26001800年頃に
栄えたとされるインダス文明にまで遡る
とされています。有名なヨーガの教典
パタンジャリ・ヨーガ・スートラは、
紀元前3世紀頃に書かれたと
言われています。
そして、仏教は紀元前500年頃に興り、
当時は新興宗教として異端でした。

仏教は、当時のバラモン教の祭儀主義を
否認しましたが、バラモンによってすでに
定められていた諸々の規範を自分たちの
禁欲的な勤行や生活様式のうちに受け入れています。

ヨーガは当時のバラモン教やその後のヒンドゥー教文化と深く結びついていましたから、仏教とヨーガはお互いの良い部分を取り込んで発展してきたと考えられます。

今日は、ヨーガの経典パタンジャリ・ヨーガ・スートラに出てくる一節と、
仏教経典によく出てくるキーワードとの共通点を見てみたいと思います。



 ― 慈悲喜捨という概念 ―

ヨーガ・スートラの1章33にこうあります。

 MAITRĪ KARUNĀ MUDITOPEKSHĀNĀM SUKHA DUHKHA PUNYĀPUNYĀ
 VISHAYĀNAM BHĀVANĀTAŚ CHITTA PRASĀDANAM.

 他の幸福を喜び(慈)、不幸を憐れみ(悲)、他の有徳を欣び(喜)、
 不徳を捨てる(捨)態度を培うことによって、心は乱れなき静澄を保つ。
                            
        ※スワミ・サッチダーナンダ著 「インテグラル・ヨーガ」 より引用


ヨーガ・スートラはサンスクリット語で書かれています。
上記はサンスクリット語をラテン文字で音写したものです。

サンスクリット語で、
「慈」MAITRĪ(マイトリー)
「悲」KARUNĀ(カルナー)
「喜」MUDITĀ(ムディター)
「捨」UPEKSHA(ウペークシャ)

仏教では、四無量心または四梵住という言葉によって表現されます。
生きとし生けるもの全てを対象とする心の働きということで、
無量という言葉が入ります。
仏教では、多くの経典によって四無量心が説かれていて、
非常に重要なことだとされています。

初期仏教の経典はパーリ語で書かれています。
パーリ語とは、当時ゴータマ・ブッダが暮らしていた地域に
広く使用されていた方言で、バラモン階級が使うサンスクリット語と違い、
広く民衆が使用した言葉でした。

パーリ語で、
「慈」METTĀ(メッタ-)
「悲」KARUNĀ(カルナー)
「喜」MUDITĀ(ムディター)
「捨」UPEKKHĀ(ウペッカー)

後期の仏教経典ではサンスクリット語のものも多く、仏教では時代によって
どちらの言語でも説かれてきたといえるでしょう。

このヨーガでも仏教でも説かれている四つの言葉の意味は、

    「慈」 マイトリー/メッタ―
慈とは、いつくしみの心です。生きとし生けるものに対して、
慈しみの心を持つということです。他人の幸福に友愛の念を持つということ。

    「悲」 カルナー
悲とは、悲しみではなく、人を苦しみから解放してあげる事を目的として
行動することです。生きとし生けるもの苦しみに対し、
その痛みを取り去ってあげたいと願う、同情する心です。

    「喜」 ムディター
喜とは、喜ぶ心です。他人の幸せを自分のことのように
心から喜べる心をいいます。
生きとし生けるものの幸せを心から支持する心です。

    「捨」 ウペークシャ/ウペッカー
捨とは、無関心・中立・平静であるという意味があります。
つまり、自分勝手な判断を捨てて、あるがままの姿を観ることを意味します。
捨の心は、生きとし生けるものを平等な存在として観る心です。


これらの四つの心は、西洋では「愛」という概念で表されているものだと思います。
ヨーガと仏教が紀元前数世紀から、現在では愛という言葉でまとめられた
慈悲喜捨という心の状態を、非常に重要なものとして受け継いできたことは、
これが宗教や洋の東西そして文化を問わず、
不変的な道徳律であるからなのでしょう。

ヨーガを学ぶことは、心の真理に触れていくことでもあると思います。
それは、私達が昔から馴染みある仏教でも既に説かれている場合が多いのです。
若い方たちが、仏教に親しむことでヨーガの理解を深め、
心の真理に近づいていけるのなら、
彼ら自身はもちろん、その次の世代の人たちにとっても、とても喜ばしいことでしょう。

建長寺の龍王殿入り口に置かれていた仏教情報誌のタイトルが、
まさに慈悲喜捨の「喜」ムディターでした。